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アラン・ムーア インタビュー:魔術的意識、放棄された作品群、そしてロング・ロンドン五部作

ムーアが語る「ノスタルジアはなぜ文字通りの病なのか」、そして権威主義が常にそれを武器として利用してきた理由 フィーチャード画像クレジット: ミッチ・ジェンキンス 過去の創作物を真に乗り越えるためには、それらを置き去りにする必要があると言われることが多い。そして、この哲学をこれほど根本的な形で体現しているアーティストは少ない。主流の世界が彼のスーパーヒーロー作品の巨大な影響力に固執し続ける一方で、「ノーサンプトンの魔術師」はとうの昔にそこから先へと進んでいる。今日のムーアにとって、それらの代表作はすでに過去の時代の遺物であり、自らが決定的に超克したスーパーヒーロー・ジャンルの産物に過ぎない。『フロム・ヘル』、『ロスト・ガールズ』、『リーグ・オブ・エクストラオーディナリー・ジェントルメン』はグラフィック・ノベルという媒体を再形成した古典的作品群に数えられるが、彼の文学的旅路は常にさらなる広大な地平を求めてきた。実験的で魂を揺さぶる『ヴォイス・オブ・ザ・ファイア』や大作『エルサレム』など、英国の故郷の深い精神地理学的(psychogeographic)な根源を探求する作品も彼の手によるものだ。アラン・ムーアは生涯をかけて、物語には意味があると主張し続けてきた。おそらく私たちが認めることに居心地の悪さを感じるほどに、深く。作家、魔術師、文化批評家として、ムーアは実践においても信念においても断固として独立を貫き、自身を称賛する産業に対してしばしば抵抗を示してきた。彼の作品は物語を単なる娯楽としてではなく、思考の技術として扱う。アイデンティティ、さらには現実そのものを揺るがすことができる技術として。言語学、地域の歴史、そして精神のアーキテクチャは人類に真の影響を与えうるのだ。 グラフィック媒体の歴史において最も重要な作家と広く見なされている彼は、その境界をとうに超越し、人間の精神の地図製作者、不可視の歴史家、そして自称儀礼魔術師となっている。アラン・ムーアはまさに神話の解体者であり、その作品は影を落とす。企業の機構から距離を置き、より独自の、主権的な芸術を追求することを選んだ作家だ。今日のムーアを理解するには、DCコミックスの時代を超え、英国ヴィジョナリーの伝統という深い水域へと踏み込まなければならない。彼の現在の創造的な鼓動は、ウィリアム・ブレイクの根本的な神秘主義、オースティン・オズマン・スペアの「呪符化された(sigilised)」オカルティズム、そしてマイケル・ムアコックやクライヴ・バーカーの境界を押し広げるファンタスマゴリアと共鳴している。これらの系譜を辿ることで、コミックのページのグリッドをより流動的で魔術的かつ文学的な風景へと交換した創造者の姿が浮かび上がる。 この進化は2024年、二つの記念碑的な作品の刊行によって頂点に達した。一方は長らく待ち望まれた『ムーン・アンド・サーペント・バンパー・ブック・オブ・マジック』。数十年にわたって制作された、芸術とオカルトの橋渡しをする決定版の万華鏡的な魔道書(グリモワール)だ。もう一方は、彼の最新作となる「全的フィクション(Total Fiction)」への挑戦、「ロング・ロンドン・シリーズ」の第一章『ザ・グレート・ウェン』である。ここでムーアは、平凡な世界と神話的な世界の境界が溶け合う歴史的な戦後ロンドンを探求する。魔術の言語的な根源を探り、未知の領野へと踏み込み、あるいはロンドンの四次元的な通りを歩みながら、彼は今なお最も重要で妥協を知らない文化批評家の一人であり続ける。彼の作品を読むことは、想像力は中立ではないこと、そして芸術は真剣に向き合われたとき強力な何かたりえることを、改めて思い知らされることだ。この軌跡は、第二巻『アイ・ヒア・ア・ニュー・ワールド』の間近に迫った刊行へと続く。そこでムーアは、1950年代のノッティング・ヒルにおける音響実験と社会的激動を、彼の拡張し続ける「ロング・ロンドン」の神話体系へと織り込んでいく。 初期のコミック連載作品『マクスウェル・ザ・マジック・キャット』について。これらのテーマを探求する動機は何でしたか。また、その頃に魔術というものを、少なくとも垣間見たといったかたちで、理解し始めていましたか。 残念ながら、そういったことはありませんでした。『マクスウェル・ザ・マジック・キャット』は、地元の新聞の子ども向けコーナーへの採用を求めていた当時、適切なアイデアを何とか捻り出そうとして生まれたコミック連載でした。実際には魔術とはまったく関係がなく、正直に言えばかなり冷笑的な代物で、すぐに子どものページからより大人向けのコーナーへと移されることになりました。魔術というテーマは、英国の普通の子どもなら誰もが触れるような程度のもの、つまりおとぎ話、伝説、映画、コミックなどを通じて知っていたに過ぎません。職業として物語を書くようになってからは、しばしばファンタジー作品のために何らかの難解なオカルト的な細部を調べて、作品に重みや質感を加えることもありましたが、魔術やオカルトを興味深い研究対象として詳しく知っていることと、魔術そのものへの個人的な関与と取り組みとは、まったく別のことです。そうした個人的な関与は、魔術師になることに真剣にコミットし、知性的な探求と実験のプログラムを開始して初めて生じるものです。少なくとも私の場合はそうでした。そして真剣なコミットメントの部分については、誰にとっても同じではないかと思っています。 あなたは魔術を「言語の一形式」と表現されています。魔術師であると公言して以来、魔術についての理解は進化してきましたか。また魔術の実践は、あなたの書き方を変えましたか。 魔術に対する私の理解は、研究と実践を始めてからの三十三年間で、途方もなく進化してきました。とりわけ理解するようになったのは、魔術と芸術、特に文章を書くことは、実質的にほぼ同義であるということです。したがって、魔術は私が世界を見る方法そのものであり、私の人生のあらゆる領域に影響を与えていますが、中でも最もそれが当てはまるのが文章を書くことです。実際、今日において文章を書くことは、私にとってほぼ唯一の魔術的表現の形式と言えます。文章こそが最も強力な魔術の道具であるという認識は、意識の夜明けから現代に至るまで、自認する魔術師の多く、他にいったい何者がいるというのでしょう、の間で真実であり続けてきたのだろうと思います。 もしコミックがこれほど普及せず、あるいはスーパーヒーローの支配なしに発展していたとしたら、この媒体はどのような方向をより深く探求したと思いますか。今日のコミックはどのような姿になっていたと思いますか。 コミックという媒体は驚異的な芸術形式であり、その可能性はほとんど掘り起こされていないと言ってよいほどですが、私が所有していない作品、全体の約95%にあたりますが、それらをすべて放棄し、もはやコミックと関わりたくないという思いに私を導いてきた、コミック産業での決して愉快とは言えないキャリアにおける個人的な経験が、私にはあります。それらの本を家に置くことも、議論することも、サインすることも、目にすることも、できることならば考えることさえも、その採掘され荒廃した分野についても、私は望みません。あなたの質問については、私をコミックの分野に最初に引きつけたのは、それが文化から無視され、子どもや労働者階級にのみ適した二流の媒体と見なされていたということでした。安価な大量生産で、毎月あるいは毎週何十万、何百万部もが流通しており、適切な手によれば、コミックは有用で強力な、潜在的に解放的なアイデアを、魅力的で親しみやすい形で、社会全体の若者や貧しい人々へ、すなわちそうしたアイデアを最も必要としている人々のもとへと、素早く、また引き込まれるかたちで届けることができる分野になり得ると思えたのです。それが、コミック産業が目指すかもしれないと私が望んでいたものでした。ところが実際には、主として子どもや貧しい人々の手が届かない価格になってしまった媒体であり、より優れた例を見ても、中産階級の人々によって、中産階級の人々のために、中産階級の人々についてのコンテンツを生み出している分野であるように見えます。もちろん中産階級の人々に対して何か思うところがあるわけではありません。ただ単に、コミック・ストリップという形式はもともと労働者階級によって、労働者階級のために、労働者階級について考案されたものだということです。彼らこそがその読者であり、私の考えでは最も優れた創り手でした。それが私の見たいコミックの姿です。新しいアイデアに満ち、誰もがアクセスできる。しかし現実的に言えば、そうなることはないだろうと思っているので、私は残りのエネルギーを別のところへと向けることにしました。 あなたは魔術を「意志に従って意識に変化を引き起こす科学と芸術」と説明しています。フィクションを書くことは、どの時点で呪文を唱えることと区別がつかなくなるのでしょうか。 私の魔術の定義は、それ以降、より包括的なものとなり、意志に置かれていた重点の一部を取り除くために進化してきました。結局のところ、人間の意志が介在しないこともあります。魔術は時として、ただ物事を行うのです。スティーヴ・ムーアと私が最終的に落ち着いた定義は、魔術とは「意識の現象と可能性との、目的を持ったあらゆる関与」というものです。私たちは、芸術も科学も、どちらもシャーマニズムや錬金術から生まれたものとして、魔術の定義に含めたかったのです。その観点から見れば、魔術的でない芸術的プロセスなど存在しません。なぜなら、それはすべて目には見えず手にも触れられないアイデアというものを、絵であれ詩であれ小説であれ、あるいは激しくビートの効いたポップ・ミュージックであれ、物質的な形へと魔術的に呼び起こそうとする試みだからです。したがってフィクションの一作品は、生まれた瞬間から呪文と区別がつきません。少なくともそれが意図するところにおいては。そしてもちろん、あなたがそれを正しくやっているならば。 言語は現実を描写するのでしょうか、それとも現実を生み出すのだと思いますか。 両方だと思います。互いに描き合うM・C・エッシャーの二つの手のように。私はウィトゲンシュタインの主張、つまりある物、人、出来事について、私たちがそれを記述するのに使う言葉以外には何も真に存在しないという主張に同意します。そして「意味論のアインシュタイン」であるコージブスキー伯爵の言、人間の経験の全体が完全に言語から成り立っているという言にも同意します。もし好んで言うなら、私は自分自身を、何らかの形で他の言語の断片を生み出している言語の一断片だと見ています。 【編注】 ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(Ludwig Wittgenstein、1889–1951)はオーストリア出身の哲学者で、言語と世界の関係を探求した20世紀最重要の哲学者の一人。ムーアが参照しているのは後期思想、特に『哲学的探究』における言語ゲーム論に近い立場と思われる。アルフレッド・コージブスキー(Alfred Korzybski、1879–1950)はポーランド系アメリカ人の哲学者・言語学者で、「一般意味論」の創始者。「地図は領土ではない(The map is not the … Read more